終わってはいない

天皇、皇后両陛下が兵庫入り 「阪神・淡路」20年を前に
天皇、皇后両陛下は16日、阪神・淡路大震災が20年を迎えるのを前に兵庫県入りし、神戸市中央区の県災害医療センターを視察された。両陛下の県内訪問は2006年の「のじぎく兵庫国体」以来9年ぶり。
同センターでは、中山伸一センター長が、震災時、医療支援や患者転送を適切に行えなかった反省をもとに同センターが設立された経緯や、災害派遣医療チーム(DMAT)の養成に力を入れていることなどを説明した。
臨時病床設置の訓練では、医師らが患者とのやり取り、別の病院への搬送手配などを実演。陛下は「(現場には)実際に何回か行かれましたか」「ご苦労さまですね」と声を掛けられた。
両陛下は17日、兵庫県公館で営まれる「1・17のつどい−阪神・淡路大震災20年追悼式典」に出席される。
神戸新聞NEXT 1月16日(金)22時10分)

風化させないこと・・・

20年後・・・・

震災時「何もできなかった」少年 いま命守る消防士に
■日ごろの備えや地域住民同士のつながりの重要性を訴える西村さん
6434人の命が奪われた阪神・淡路大震災から、17日でちょうど20年を迎える。福知山消防署東分署予防係の消防士・西村洋祐さん(27)は、20年前の震災で大きな被害を受けた神戸市東灘区の出身。被災経験者として、消防士として、福知山の人たちに自助、共助の重要性を伝えている。
震災発生時は小学1年生、7歳だった。親戚の通夜があった1月16日の夜、自宅マンションの寝室で、姉と親戚の子の計4人で寝た。翌17日午前5時45分、母がセットしていた目覚まし時計で起きた。その1分後だった。地響きのように「ドーン」と音がして激しく揺れた。
頭と足の近くにあったタンスが倒れたが、幸いだれも下敷きにならずにすんだ。すぐあと、西村さんは父に抱えられて外にいた。その時に見た光景…。
「空が真っ赤だった」。近くで火災が発生し、煙がもうもうと上り、多くの建物は倒壊していた。街の変わりようは、頭で理解できるものではなかった。「ゴジラが来たんちゃうかな」。本気でそう思った。
震災後は、近くの大学へ避難。電気も、ガスも、水道も止まり、余震が続き、暗いなかで寒さと恐怖に震えるだけだった。2日後、三重県の親戚宅に姉と2人で預けられた。1カ月後、再び神戸へ戻ったが、同じ学年は3クラスが2クラスに減っていた。転校したまま戻って来ない子が多かったためで、それ以来会っていない友だちもいる。
■「人の役に立つ」憧れの職業に
震災直後の神戸では、家屋の倒壊現場から家の人を助け出そうと、隣近所の住民が協力してガレキを取り除く姿をあちこちで見かけた。活発な少年だったが、何も手伝えなかったことが無念だった。
街ではサイレンを鳴らして消防車や救急車が走り回っているのをよく見た。震災後に、防災訓練で学校に来る消防士の姿に憧れた。
あの時「何もできなかった」という無力感、そして「人の役に立つ仕事がしたい」との思いが、いつしか消防士という職業へ自らを導いた。地元からは離れていたが、福知山市の採用試験を受けた。
被災後、学校では防災教育が盛んになり、日頃からの備えの重要性を学んだ。また、住民が助け合う現場を幾度となく見てきて、「人は一人では生きられない。人と人は支え合って生きている」という精神が染み付いた。
福知山の消防職員となって5年目。今の自宅には水、食料を備蓄し、家具には倒れるのを防ぐ固定金具を取り付けている。「自然災害は止められないが、被害を最小限に抑えることはできる」。命を守るため、日ごろの備えや地域住民同士のつながりの重要性を、市民対象の講座で懸命に訴えている。
(両丹日日新聞 1月17日(土)8時0分)

いろんな人を救ってください・・・。

そんな簡単な話じゃない

被災地経済、停滞の20年 復興政策「失敗」の指摘も
地域経済に打撃を与えた阪神・淡路大震災から17日で丸20年。兵庫県は当初、「10年以内に震災がなかった場合の成長軌道かそれをしのぐ水準」を目指し、復興プロジェクトを推進した。だが、バブル崩壊後の県の年間平均成長率は0・1%で全国45位。経済環境の激変が響いたが、復興政策の失敗を指摘する声も少なくない。
「震災、不況、借金の三重苦と闘っている」。金属加工や電子部品などの中小約20社でつくる協同組合産団協(神戸市西区)の大島孝理事長(85)=大島金属工業会長=が嘆く。
被災後、各社は元の場所では仕事ができなかった。再開が遅れれば仕事を失う。そこで1998年から同区の神戸複合産業団地に集団で移った。「進むのも引くのも地獄」。神戸市から1坪50万円で土地を購入した。
周辺では今も市が誘致を進めるが、土地代は当時の半値以下。不況で仕事量は激減し、組合各社の借金返済は半分を超えた程度だ。「実勢を超えた土地代が足を引っ張る。被災企業への復興支援とは何だったのか」
神田栄治・兵庫県立大客員教授(69)=地域経済論=は被災地経済の長期停滞について「中小企業は過重な借金を背負ったまま走り続けざるを得なかった。人口減や市場縮小によるサービス業など内需型産業の低迷の影響も大きい」と分析した。

    □

兵庫県の産業復興計画にはこうある。「3年以内に純生産を震災前の水準に回復させ、10年以内に震災がなかった場合の成長軌道へ、あるいはそれをしのぐ水準を目指す」。しかし98年度以降、工場の閉鎖や移転、神戸港の衰退が加速した。
復旧を超えた「創造的復興」を目指す官民は起爆剤となるプロジェクトを進めた。関税減免で企業を呼び込むエンタープライズゾーン構想▽上海・長江交易促進プロジェクト▽マルチメディアを活用した体験型集客施設を整備するKIMEC(キメック)(神戸国際マルチメディア文化都市)−などだ。
結果、エンタープライズゾーンは国が制度を認めず、上海・長江やキメックは成果を挙げられなかった。「復興政策は暗然たる失敗」。震災当時、関西経済連合会会長で政府の復興委員会委員も務めた川上哲郎(86)=住友電気工業名誉顧問=の指摘だ。「神戸港の機能強化など効果のある施策が実行できなかった。今になって特区をやっているが、遅すぎる。重要な機会を逃した」と悔やむ。

    □

中長期的な雇用創出も課題だ。県内の有効求人倍率は0・91倍。回復基調だが、リーマン・ショック後、全国との差が開く。震災直後、神戸で雇用創出に取り組んだ人材派遣大手パソナグループ(東京)は近年、淡路島で農業や若者の芸術活動を生かした人材育成事業を強化。南部靖之代表(63)は「住む人が増えれば雇用は広がる。新たな産業づくりが必要だ」と指摘する。
神戸新聞NEXT 1月17日(土)11時1分)

なんか、もっとうまい方法はないもんですかね。